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京畿道開豊郡の徳水李氏の出身で、漢城(現ソウル)の乾川洞(現中区乙支路)に生まれた。父は李貞。4人兄弟の三男。兄弟の名前は、上から、羲臣、尭臣、舜臣、禹臣。中国の伝説上の帝王の名前の一字をとって、名付けられている。後に、李氏朝鮮の領議政(首相)となる三歳年上の柳成龍も、同所で生まれており、李舜臣とは幼馴染の仲だった。李舜臣は、幼い時から勇猛果敢な性格だったが勉学は苦手であったようである。このため、20歳すぎになると、文科は諦めて武科の試験を受けることにした。しかし、試験では、落馬したり、筆記試験に落ちるなどして、合格したのは1576年、32歳のときであった。李舜臣の母の実家がある忠清南道牙山市に、李舜臣の功績を称える「顕忠祠」があるが、そこに展示されている資料には、李舜臣が武科に「丙科合格」したことが記述されている。李舜臣は、下士官として朝鮮各地を転戦したが、上司との折り合いが悪く、罷免されたり、白衣従軍(罰を受けて一兵卒として従軍すること)を命ぜられたりしている。李舜臣が不遇な時には、幼馴染で同派閥の柳成龍が救っていた。そして文禄の役の前年である1591年に、柳成龍の推薦により全羅左道水軍節度使(略称:全羅左水使)に大抜擢された。当時、柳成龍は右議政(副首相)の地位に出世していたのである。だが、何の功績も無い李舜臣の大抜擢は、先任の水軍節度使である元均などの激しい反感を買うことにもなった。
1592年4月、豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始すると、慶尚道の水軍は壊滅したが残存朝鮮水軍の主導的指揮官の一人として朝鮮水軍を指揮した。緒戦では釜山西方の支配領域拡大のために展開していた日本軍後方諸隊の海上移動のための輸送船を数次に渡って攻撃し、成功を収めた。
攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に平壌・咸鏡道などに展開していた日本軍は、釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の輸送船攻撃が活発になると7月になって脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗する事とした。
しかし、単独で抜け駆けで進出してきた脇坂水軍を李舜臣は囮を使って潮流の激しい海峡に誘き寄せて閑山島海戦で撃破した。続いて脇坂の援護のために安骨浦まで進出して停泊していた加藤・九鬼水軍を襲撃した。この二つの海戦の結果、急造の日本水軍を出撃させて朝鮮水軍に当たる海上戦闘は不利であると悟った秀吉は日本軍勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や大鉄砲を備え、船対船の積極的な海上攻撃作戦から船対陸の水陸防御作戦へ戦術を変更した。この戦術転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は釜山浦攻撃、熊川攻撃など被害が多く成果が上がらないために出撃回数は激減した。
1593年、これまでの功績を認められた李舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道・忠清道)の水軍を統べる指揮官に出世した。また李舜臣と元均はお互いに讒言を行うなど不和であったため、朝鮮朝廷により元均が陸軍へ更迭された。李舜臣は彼の日記の中で、「天地の間に、元均ほど凶悪で常軌を逸した人はいない」とまで述べている。李舜臣は休戦交渉期の1594年3月に水軍で巨済島を攻撃(第二次唐項浦海戦)したが日本軍に撃退され、不動産投資
に戦争を指導する明より和平交渉の妨害となるため交戦を禁じられた。また、同年9月から10月にかけて朝鮮陸水軍により再び商品先物取引
を攻撃する作戦が発動されたが数次に渡る攻撃も失敗し、李舜臣は福島正則や島津義弘により撃退された。(場門浦・永登浦海戦) この結果、李氏朝鮮王朝では査問を行い、李舜臣は留任となったが上司で体察使の尹斗寿は責任を問われて更迭された。この後、戦線は膠着したが、1597年に慶長の役の攻勢準備のために加藤清正が朝鮮へ着到することを小西行長の使者が朝鮮側に漏らし、朝鮮朝廷は加藤清正の上陸を狙って攻撃するように李舜臣に攻撃を命令した。しかし、李舜臣はこれを日本軍の罠と考えて独断で攻撃を実施しなかったため、朝鮮朝廷内部では抗命を咎める声が大半となり、李舜臣は更迭され拷問を受けて一旦は死罪を宣告されたが、鄭琢の取りなしで一兵卒として白衣従軍を命じられた。(柳成龍「懲録」)
1597年に李舜臣の後任の水軍統制使元均が水軍単独での攻撃命令を嫌がりながらも遂行したが、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗を喫し、戦死した。かわって水軍統制使に返り咲いて壊滅した水軍の再建を進めたのが李舜臣である。李舜臣が再任された時は、朝鮮水軍には僅か12隻の戦船(板屋船)しか残っていなかったと言われる。日本陸軍によって全羅道や忠清道が掃討されつつある中、壊滅直後の残存艦隊を収容しながら後退した李舜臣の艦隊は、朝鮮半島西南端の潮流の激しい鳴梁海峡で日本水軍を誘導し、突入してきた日本水軍の先頭部隊に一撃を加えて勝利したものの(鳴梁海戦)。朝鮮水軍の戦力も益々低下したため戦場海域から撤退した。同時期に全羅道西岸拠点が次々と日本陸軍によって制圧されたために李舜臣は拠るべき泊地を失って後退を続け、全羅道の北端まで退却し(当時の水軍は長期の洋上行動はできず沿岸や島嶼に順次泊地を求めながら移動するものであった)、さらに日本水軍が進出して全羅道西岸の制圧を実施して姜コウや鄭希得などの多くの捕虜を得た。
明の大軍が南下することを察知した日本軍は冬をCFD
に迎撃体勢を取るために慶尚道から全羅道にかけての朝鮮南岸域へ自主後退をした。日本軍が撤退すると李舜臣の水軍も明・朝鮮陸軍と共に朝鮮南岸へ再進出することができた。李舜臣は朝鮮南岸西部にある古今島を拠点とし、そこに陳リンが率いる明水軍が合流した。
1598年、明・朝鮮軍が日本最西端の拠点である小西行長等が守る順天城を攻撃しだすと、李舜臣は明水軍の指揮下に入って水陸共同の順天攻撃作戦に参加し同時に順天城の海上封鎖を行ったが堅い守りに阻まれたため、厭戦気分が蔓延して攻撃は頓挫、海上封鎖を解いて古今島に後退した(順天城の戦い)。
秀吉の死によって日本軍に退却命令が出ると小西行長は明・朝鮮陸軍との間に講和を成立させ、海路を撤退しようとしたが、それを知った明・朝鮮水軍は古今島から松島沖に進出し海上封鎖を実施、小西らの撤退を阻んだ。そのため今度は明・朝鮮水軍と休戦交渉を行い明水軍の内諾を取りつけたものの、李舜臣はそれを肯んじなかったため依然順天城に足止めされることとなった。
順天城の海上封鎖のために小西軍が脱出不能と知ると投資信託
は島津義弘等が急遽水軍を編成して救援軍を派遣した。李舜臣はこれを察知し、明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて島津水軍を露梁海峡で迎撃した。
この露梁海戦では夜半からの戦闘が長時間続き、急造の島津水軍は大打撃を受けたが混戦の中で指揮官の李舜臣やトウ子龍等が戦死しため、後退する島津水軍を追撃することは出来なかった。
一方、孤立していた小西行長は明・朝鮮水軍の出撃により封鎖が解けたので海路脱出に成功し無事日本へ帰国することができた。李舜臣はその死後に忠武と謚(おくりな)された。
韓国ソウルの官庁街である世宗路には、李舜臣の銅像が建てられている。これは軍事政権下の力の象徴として設置されたと言われる。なお、外にも釜山龍頭山公園や[木浦]など、数多くの朝鮮半島南海岸に李舜臣の銅像が建てられている。
従来、日本軍の補給不足を李舜臣の外貨預金
によるものと解釈されることが多かったが、補給不全が生じていたのは内陸部に進出した部隊に対してであって、全戦役を通じて九州から釜山までの海路における物資や人の流通が決定的な補給不全を起していたことはなく、したがって日本軍の補給路が李舜臣率いる朝鮮水軍によって遮断されたと解釈するのは正しくないとする説も近年提出されている。この説に拠れば、日本軍の食糧不足の主な原因として、緒戦で奥地へ急進してしまったこと、和戦の曖昧な侵攻による食料の準備不足、現地調達を日本の常識で想定してしまったこと、義兵や流民による輸送路襲撃の激化などが挙げられている。そして、これらは1593年からの日本本土からの補給作戦の開始と主力軍の南部への布陣で解消されており、準備を整えた慶長の役の侵攻作戦では補給の破綻は起きていないとしている。