ツァーリあるいはツァール(ブルガリア語:Царツァール;ロシア語:Царьツァーリ;ラテン文字表記の例:Tsar´、Tsar、Czarなど)とは、ブルガリア・ロシアなどスラヴ語圏で使用された皇帝の称号である。ドイツ語(Zar)や英語(Tsar)ではツァーと呼び、日本語文献でもそのように表記する場合がある。
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ラテン語「カエサル」やギリシア語「カイサル」のスラヴ語形。そもそもは、ローマ皇帝やその継承者である東ローマ(ビザンツ)皇帝を意味する称号として「カエサル」[1]という語が用いられており、その称号を周辺の国家が用いたもの。その際に発音が変化して「ツァーリ」や「ツァール」となった。一般に「皇帝」と訳されることが多い。
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1 ブルガリアのツァール
2 ロシアのツァーリ
3 脚注
4 関連項目
[編集] ブルガリアのツァール
ブルガリア君主一覧も参照
ブルガリアのツァールは、第一次ブルガリア帝国のシメオン1世がビザンツの首都コンスタンティノポリスへ攻め入った際、和平の条件の一つとして「皇帝」の称号を得たことによる、とされる。[2]
これを足がかりにシメオンは「ブルガリア人とローマ人の皇帝」と称して、ビザンツ皇帝の位を奪取することを目指したが果たせなかった。
しかし、その後も第二次ブルガリア帝国、ブルガリア王国においても君主の称号として用いられつづけた。
[編集] ロシアのツァーリ
1480年にモンゴルからの自立を果たしたモスクワ大公国のイヴァン3世が、初めてツァーリの称号を使用し始めた。そして、1547年にイヴァン4世は生神女就寝大聖堂において、ツァーリとして正式に戴冠を行い、外交文書においてもツァーリの称号を用いて各国君主、教皇などと外交交渉を行った。ただし、この段階では「全ルーシのツァーリにして大公」という形でこの称号は用いられており、かつてのローマ帝国、ビザンツ帝国を志向した帝国というより、むしろキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の延長上に自らの国家を位置づけていた。
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ただし、モンゴル支配時代(モンゴル帝国)には、サライに君臨するジョチ・ウルスのハンを指して「ツァーリ」と称する用例も見られ、必ずしも単純に、上記のよう位置づけるのが妥当かどうか疑問ともされる。また、ローマ・ビザンツ帝国をロシアが継承するという「ロシア=第3ローマ」論に見られるように、ツァーリという称号はローマ・ビザンツの継承者の称号として用いられたとする説もある。これらに関しては、イヴァン4世は西洋のツァーリ(カエサル)と東洋のツァーリ(ハン)を継承する称号として「ツァーリ」を称した、という説が有力である。
1721年、大北方戦争に勝利して祝賀ムードが高まる中、ロマノフ朝のツァーリであったピョートル1世は元老院(ピョートルの時代に創設)から、「インペラートル(Императорイムピラータル)」、「祖国の父」、「大帝」といった称号を認められた。これは古代ローマ帝国の「インペラトル」由来の称号であり、インペラートルの理念はルーシ世界の統治を志向したツァーリの称号とは異なり、ロシア帝国の皇帝という意味合いの強いものであった。上記の西洋・東洋のツァーリを継承したという説に基づくと、ピョートルがインペラートルの称号を用い始めたことは、ロシアがユーラシア国家の枠組みからヨーロッパ国家の枠組みに変貌したことを意味している、と指摘されている。しかし、その後も歴代のインペラートルは、民衆にも馴染みの深いツァーリの称号もあわせて使用し続けた。
ツァーリの称号は、1917年のロマノフ朝滅亡まで用いられた。ロシア革命で退位を余儀なくされ後に殺害されたニコライ2世が最後のツァーリであった。
1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を用い始めてから1721年にピョートル1世がインペラートルの称号を用い始めるまでの時期のロシア・ルーシ国家は「Царство Русское」を称していたが、日本語の定訳はなく、「ルーシ皇国」あるいは「ロシア皇国」または意訳して「ツァーリ制ルーシ」、「ツァーリ制ロシア」などと翻訳できる。日本では、専らポーランド王国やウクライナなどロシアの外で用いられた地域名「モスコーヴィヤ」あるいは「モスクワ国家」、「モスクワ皇国」といった名称の方が知られている。また、概して「モスクワ大公国」と「ロシア帝国」の名称の使い分けが曖昧であるため、この時期のモスクワ・ロシアについても両者のいずれの名称も使用されることの方がむしろ多い。
ロシアでは革命後も独裁的な政治が続いたため、指導者を揶揄的にツァーリと呼ぶことがある。特にヨシフ・スターリンは好んで自称した。
ロシアでは、人物以外でも、飛び抜けて巨大な物を「ツァーリ・○○(○○の皇帝)」の愛称で呼ぶことがある。著名なものは、クレムリンに展示されている巨大な大砲ツァーリ・プーシュカ、巨大な鐘ツァーリ・コロコル、ソ連が開発した史上最大の核爆弾ツァーリ・ボンバがある。
[編集] 脚注
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^ ビザンツ時代の公用語であるギリシャ語では「カイサル」。ビザンツでは皇帝の称号の一つではあったが、単に「カイサル」といった場合は副帝を指した。
^ ただし、中期ビザンツにおいては、一般的に皇帝の称号は「バシレウス(中世以降のギリシャ語ではヴァシレフス)」である。
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[編集] 関連項目
ブルガリアの歴史
ロシアの歴史
ツァーリズム
インペラトル
カエサル
ユリウス (Julius) は、古代ローマの氏族名。ユリウス氏族はパトリキ系の氏族(ゲンス)の一つで自らの祖先がアエネイアスの息子ユルスであるとし、アエネイアスを通して女神ウェヌスにも連なると主張していた。ユリウス氏族の女性はユリアと呼ばれた。ユリウス氏族に属する代表的な家族としてカエサル家がある。
共和政末期ローマの独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルもユリウス氏族に属しており、カエサルが改めた暦にもユリウス暦(更に7月、英語ではJuly)としてこの名が使われている。さらにカエサルの跡を継いだガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)が開始した帝政ローマにおいて、アウグストゥスから続く最初の元首の家系もユリウス氏族からユリウス・クラウディウス朝と呼ばれている。
カエサルはガリア戦争の戦後処理として、部族長達にそれまでの特権をそのまま認め、ローマ市民権を与え、そして自らの家門名ユリウスも大盤振る舞いし、クリエンテス網に組み込んだ。そのため帝政期ガリアの有力者にはユリウスの名を持つ者が多い。
後にローマ教皇の名としても使われた。またドイツ語の名前ともなった。
ユリウスの氏族名を持つローマ人
ユリウス・プロクルス
ガイウス・ユリウス・カエサル
ユリウス暦
ユリウス通日
ローマ教皇
ユリウス1世
ユリウス2世
ユリウス3世
ドイツ語の個人名ユリウス
ユリウス・シャラー
ユリウス・リヒャルト・ペトリ
ルドルフ1世(Rudolf I.又はRudolf von Habsburg 1218年5月1日 - 1291年6月15日、在位:1273年 - 1291年)はハプスブルク家における最初の神聖ローマ帝国君主(ドイツ王)。
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当時のハプスブルク家は現在のスイス(当時神聖ローマ帝国に属していた)に所領を持つ伯爵家で、ドイツにおいてさほど有力な諸侯ではなかった。ホーエンシュタウフェン朝の皇帝に忠実であったこと、父ハプスブルク伯アルブレヒト4世の母アグネス・フォン・シュタウフェンがホーエンシュタウフェン家傍系の出身であったこと、そして強力な皇帝の出現を嫌うドイツ諸侯の思惑により、大空位時代の後、帝国君主であるドイツ王に最初に選出されたのが、ハプスブルク伯ルドルフ(3世)であった。
即位してルドルフ1世となると、彼は真っ先に皇帝権力の強化と地盤固めに専念した。ドイツ諸侯と婚姻策をとって連携をはかったのである。また、当時神聖ローマ帝国において最も有力で、選帝侯の1人でもあったボヘミア王オタカル2世は、ルドルフを軽んじて臣従を拒んだが、ルドルフは1278年のマルヒフェルトの戦いでオタカル2世を敗死させ、オーストリアその他の所領を奪取した。しかし、このとき奪取した領土を分割して子に与えたことが、後のハプスブルク家に後継者争いという暗雲をもたらすこととなる。その後ルドルフはオーストリアに本拠地を移し、見事に皇帝権力の強化とハプスブルク家発展の基礎を作り出したのである。
1279年からは対外政策を重視し、歴代皇帝の権力を失墜させる原因となったイタリア政策を取りやめ、ハプスブルク家の皇位世襲化を図ったが、前者は当時のローマ教皇がフランス派であったために、後者は皇帝権力の強化を嫌うドイツ諸侯のために、いずれも果たせないまま病没した。帝国君主ではあったが、ローマ教皇から戴冠を受けることがなかったため、正式には「皇帝」に即位できずに終わった。
外為
しかし、ルドルフ1世の治世に神聖ローマ帝国は大空位時代の混乱を脱し、またハプスブルク家の発展の基礎が作り出されたのである。